西徳山まちづくりの会
2015-04-12T18:17:40+09:00
kanmoto
周南市のまちづくり団体です
Excite Blog
歓送迎会
http://kanmoto84.exblog.jp/23903101/
2015-04-12T18:17:43+09:00
2015-04-12T18:17:40+09:00
2015-04-12T18:17:40+09:00
kanmoto
日記
たとえば、桜の花が咲いたと思ったら、すぐに散ったりする。春といっても3月の終わりから4月の初めにかけては、うれしさと物悲しさが交互に訪れる。そんな4月10日(金)に夜市地区歓送迎の集いが開催された。
今年は小学校の校長先生をはじめ4人の先生、幼稚園の廃園に伴い、園長先生はじめ2人の先生。そして市役所支所長とで、7人の人が退職または転任された。新たに小学校に6人の先生と市役所支所長を迎えた。
主催者のねぎらいと歓迎の言葉に続き、転任・着任の方々からの挨拶の後、宴は佳境に入り、大いに盛り上がりを見せた。あちこちで、名残を惜しむ声や、はじめましてと自己紹介などが始まった。地区の情報交換なども欠かせない、夜市地区ならではの集いである。
新任のK夜市小学校校長先生の談、
「長いこと教員をやっていますが、地区をあげての歓送迎会を催してもらったのは初めてで、感激しています。この地区の教育力も、きっと高いのでしょうね。」
]]>
私の名前は美和子
http://kanmoto84.exblog.jp/23870468/
2015-04-08T18:49:54+09:00
2015-04-08T18:49:49+09:00
2015-04-08T18:49:49+09:00
kanmoto
連載
その後、楫取素彦(小田村伊之助)に嫁いでいた実の姉の寿(ひさ)が他界いたしましたので、私が楫取の嫁になり、身の周りの世話をしたのでございます。
楫取は兄の寅次郎と同じく、本当によく勉強をしておりました。兄が安政の大獄で死罪になった後、兄の私塾、松下村塾をまかされたこともあります。
私は吉田寅次郎松蔭の妹の文でございます。今振り返ると、明治の御一新はまるで夢のようであります。私は大正10年にこの世に別れを告げました。
了]]>
私の名前は美和子
http://kanmoto84.exblog.jp/23823022/
2015-04-02T19:02:28+09:00
2015-04-02T19:02:30+09:00
2015-04-02T19:02:30+09:00
kanmoto
連載
なぜ私の主人が、こんなにも山田様と懇意にしていたのかと申しますと、何代目かの当主様になられる人が養子に出られ、萩明倫館の先生をなさっておられたとき、夫、素彦と同僚だったらしいのです。
その後、山田様も三田尻にお越しの際は手土産を持ってきたりしてくださいました。私も何度かお礼のお手紙を差しあげたりしました。年賀状のやり取りもして、楫取家と山田家のお付き合いは続いたのでございます。
]]>
西徳山」いけいけだより第29号
http://kanmoto84.exblog.jp/23822986/
2015-04-02T18:56:00+09:00
2015-04-02T18:58:32+09:00
2015-04-02T18:56:49+09:00
kanmoto
お知らせ
]]>
私の名前は美和子
http://kanmoto84.exblog.jp/23806136/
2015-03-31T18:52:58+09:00
2015-03-31T18:52:53+09:00
2015-03-31T18:52:53+09:00
kanmoto
連載
何しろ主人は群馬県令(知事)をいたしておりましたので地方政治のことは詳しかったのでしょう。
]]>
大17回おひとよしコンサート
http://kanmoto84.exblog.jp/23800703/
2015-03-30T20:47:54+09:00
2015-03-30T20:47:50+09:00
2015-03-30T20:47:50+09:00
kanmoto
日記
シニアピアニストが主流ですが、バイオリンや尺八など多彩です。
おじさんはピアノ独奏です。バッハの「しゅよ、人の望みの喜びよ」です。
何とか終えることができました。
]]>
私の名前は美和子
http://kanmoto84.exblog.jp/23766867/
2015-03-26T18:27:55+09:00
2015-03-26T18:27:56+09:00
2015-03-26T18:27:56+09:00
kanmoto
連載
私たちのお相手をしてくださったのは8代目ですが、6代目の当主様は国学を学んでおられたということです。国学とは天皇様を中心に日本の国の伝統を重んじるという学問で、和歌を盛んに詠むことがはやっておりました。また、知行合一といって、考えることと行動をおこすことが一致しなければならないなどという思想も考えられており、私の兄などはその思想で、考えるとすぐ行動におこしました。その結果、幕府に武蔵の野辺で斬首されてしまいました。
to be continued
]]>
私の名前は美和子と申します
http://kanmoto84.exblog.jp/23745288/
2015-03-23T18:22:41+09:00
2015-03-23T18:22:37+09:00
2015-03-23T18:22:37+09:00
kanmoto
連載
なぜ富海なのかですって。文久・元治(1864年ごろ)の頃、長州は尊皇攘夷一色でございまして、外国艦に対して砲撃をやめさせるなどというと、命もとられかねないのです。それで彼らは、隠れながら密かに富海の浜に上がって、そこから藩庁の偉い人に会おうとしたのです。
ずいぶん道草をしてしまいました。富海を過ぎると山陽道は椿峠という急な上りに差し掛かりました。峠を越えてだらだら坂を下っていくと、左手の少し高いところに山田様のお宅が見えてきました。
つづく
]]>
ふく供養祭
http://kanmoto84.exblog.jp/23745343/
2015-03-21T18:28:00+09:00
2015-03-23T18:37:03+09:00
2015-03-23T18:37:03+09:00
kanmoto
日記
お寺さんによる読経の後、焼香。ふぐの稚魚放流などがあり、最後は餅撒きで締めくくりました。
]]>
私の名前は美和子
http://kanmoto84.exblog.jp/23732708/
2015-03-21T18:24:00+09:00
2015-03-21T18:26:04+09:00
2015-03-21T18:24:42+09:00
kanmoto
連載
主人と私が都濃郡戸田村にある山田様のお宅にお邪魔したのは、確か明治34年の9月、日露戦争の3年前の事でした。当時私どもは三田尻に住んでいましたので、山陽道を東に向けてしばらく歩くと、橘坂にいたります。ここから見る瀬戸内の海は本当に美しくきらきらと光って、富海の浜が眼下に見えました。この浜から多くの長州藩の志士たちが京・大阪へと飛舟と呼ばれる小さな船で海路出発したものと聞いております。
つづく
]]>
まちづくりの会の広報の編集会議
http://kanmoto84.exblog.jp/23699722/
2015-03-16T21:30:38+09:00
2015-03-16T21:30:39+09:00
2015-03-16T21:30:39+09:00
kanmoto
日記
今回は第29号です。4ヶ月に1度の季刊ですので、早や足掛け8年ということになります。
その29号の編集会議が行われました。
各編集委員が担当の記事を持ち寄って、編集委員会で意見を出し合います。
4月1日には第29号が出来上がり、戸田駅や道の駅「ソレーネ周南」に置かれたり、新聞折込に入ります。
また、ホームページにもアップされます。
]]>
戸田駅前花壇手入れ
http://kanmoto84.exblog.jp/23699658/
2015-03-16T21:20:55+09:00
2015-03-16T21:21:03+09:00
2015-03-16T21:21:03+09:00
kanmoto
日記
西徳山まちづくりの会では、戸田駅を花の駅にすることを目指しています。
戸田駅にも春が訪れ、季節はずれの葉牡丹を引き上げる作業をしました。
4月には新しい花の苗が植えられることでしょう。
こうして四季は巡ってくるのです。
]]>
まちづくり広報
http://kanmoto84.exblog.jp/23671977/
2015-03-12T20:51:39+09:00
2015-03-12T20:51:40+09:00
2015-03-12T20:51:40+09:00
kanmoto
日記
編集をする前に後記を書きました。
編集後記
シリーズ西徳山の名所旧跡で、周南市湯のにある「山田家本屋」を取材した。施設を管理されている山下さんの詳しい説明に、思わず聞き入った。
大河ドラマ「花燃ゆ」は、吉田松陰の妹の文の物語である。その文の後の夫となる楫取素彦や村田清風の書も残されていて、実際に山田家に立ち寄ったと思われる。文(楫取美和子)の手紙も展示されている。
山田家と楫取家との交流を書くだけのことだが、なぜ両家の交流が始まったのか。山田家に尊王の志士たちが立ち寄ったといわれる理由は。楫取素彦の書は明治34年だが、これは日露戦争の3年前になること。そしてその10年後に戸田駅が営業を開始したことなど、多くのことを知ることができた。
一人の人間の生き様にはそれぞれの時代背景があり、歴史の中に身をおいているのだと思う。こんな身近にも興味のある物語がたくさんある。
歴史を語り継いでいくのもまちづくりのひとつである。
]]>
山田家本屋
http://kanmoto84.exblog.jp/23660393/
2015-03-10T21:32:46+09:00
2015-03-10T21:32:42+09:00
2015-03-10T21:32:42+09:00
kanmoto
お知らせ
現在の山田家の鴨居には、楫取素彦の書も額に入れて掲げられている。楫取は前の名を小田村伊之助といい、吉田松陰と深い親交があり、松蔭の妹の寿子と所帯を持つ。その後寿子が逝去すると、同じく松蔭の妹で、久坂玄瑞に嫁いでいた文と再婚することになる。文は久坂が禁門の変で自害したので未亡人となっていた。後の楫取美和子である。
件の書であるが、明治34年9月とあるので、楫取が72歳のときである。山田氏が戸田村の村長であったことからか、欧米の地方自治のことや議会制民主主義のこととかが書かれているように読み取られる。このときの8代目山田氏は、郵便局の設置や戸田駅の誘致に尽力をしておられる。
このように山田家と楫取家の交流は続けられ、年賀状や手紙のやり取りもしている。山田家本屋では楫取美和子(文)の手紙も展示されている。
では、なぜ両家の交流は始まったのか。5代目山田家当主のとき、代々明倫館学頭を勤めていた家に山田家から養子に入ったとのことである。同じく明倫館の同僚であった楫取との交流がこのときから始まったと思われる。
また、6代目当主は国学を習っていて、山田家が山陽道にも隣接していることから、多くの尊王の志士たちが訪れたに違いない。和歌の会も頻繁に開かれていたようである。
湯野の山田家本屋には、このようにマニア垂涎の展示物がたくさんある。宮家からの拝領物の中で、ひときわ目に付くのが一弦の琴である。
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」が放映中の今、山口県建造物指定文化財でもある山田家本屋に、是非足を運んで見られたらいかがであろう。
]]>
日帰り研修旅行
http://kanmoto84.exblog.jp/23646158/
2015-03-08T21:25:06+09:00
2015-03-08T21:24:33+09:00
2015-03-08T21:24:33+09:00
kanmoto
日記
戸田駅から山陽本線を使って、日帰りの小旅行ができるのはどこかと考えて、安芸の宮島へ行くことにしました。
まちづくりの研修なので、単なる物見遊山では物足りないとして、宮島の町の面白いところや興味あるところを写真に撮り、その写真の説明やなぜ面白いかを添付するということにしました。
宮島へは何度も訪れているのですが、何度来てもたくさんの観光客がいます。
子どものとき、自分の子どもたちを連れてきたとき、友達が結婚の挙式を宮島でするというので、お祝いに来たとき、そして還暦過ぎて来てみました。何時のときもその歳に応じて、その美しさに魅了されます。
島から本土へ帰って、牡蠣小屋で焼き牡蠣でおいしいビールを飲みました。天気は最高!
]]>
https://www.excite.co.jp/
https://www.exblog.jp/
https://ssl2.excite.co.jp/